京城師団管区

京城師団管区(けいじょうしだんかんく)は、1940年8月から1941年10月まで、当時日本の統治下だった朝鮮に置かれた日本陸軍の管区である。第20師団が管轄した。前の第20師団管区が改称したもので、1年後に京城師管に改称した。

解説

師団管区は、日本の内地における師管に相当する地区で、朝鮮には1939年(昭和14年)に第19師団管区第20師団管区の2つが置かれていた。日本の師管は長らく師団に対応する番号を冠しており、第20師団管区は朝鮮の京城(現在のソウル)に常駐する第20師団に対応していた。

しかし内地では、日中戦争の長期化で多くの師団が大陸に出て帰らなくなったため、一部で50番台の師団を新設して師管を管轄することにした。その際に第51師管などを作ることはせず、師管と師団管区をすべて地名で呼ぶことにした。1940年、昭和15年軍令陸第20号(7月24日制定、26日公布、8月1日施行)の陸軍管区表改定で、第20師団管区は京城師団管区に改称した[1]。朝鮮の師団は動かなかったので、ひきつづき第20師団が管轄した。下に属する兵事区も変わらなかった。範囲は北東部を除く朝鮮の大部分である。

1941年8月5日制定(6日公布)の昭和16年軍令陸第20号による陸軍管区表改定で、師団管区を内地と同じく師管と呼ぶことになり、京城師団管区は11月1日に京城師管に改称した[2]。管轄地、兵事区に変更はなかった。

管区の構造

  • 京城師団管区
    • 京城兵事区(京畿道、江原道、忠清北道)
    • 平壌兵事区(平安北道、平安南道、黄海道)
    • 大邱兵事区(慶尚北道、慶尚南道)
    • 光州兵事区(忠清南道、全羅北道、全羅南道)

脚注

  1. ^ 『官報』第4066号(昭和15年7月26日)。リンク先の2コマめ。
  2. ^ 『官報』第4375号(昭和16年8月7日)。

参考文献

  • 内閣印刷局『官報』。国立国会図書館デジタルコレクション。