宮本幸一

みやもと こういち

宮本 幸一
生誕 (1949-11-04) 1949年11月4日(74歳)
日本の旗 日本
職業 ニッポン放送元専務取締役
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宮本 幸一(みやもと こういち、1949年11月4日[1] - )は、日本ラジオディレクターラジオプロデューサーニッポン放送 元専務取締役。

来歴

1949年11月4日、生誕。

1972年3月、東京理科大学工学部を卒業[2]

1972年4月、ニッポン放送に入社。

1992年7月、編成局長に就任。

1997年6月、取締役に就任。

2001年6月、常務取締役に就任。

2010年6月、専務取締役に就任[3]

2015年6月、専務取締役を退任。

2015年6月、ニッポン放送プロジェクト代表取締役社長に就任。

2018年6月、ニッポン放送プロジェクト取締役相談役に就任。

2019年7月、取締役相談役を退任。

人物

父親が電気関係の会社を経営しており電気との関わりなど影響を受けている[4]。少年時代はアメリカン・ポップスが好きで小学5年生頃にラジオを聴き始めラジオと音楽が生活の一部だったという[4]野沢那智白石冬美(那智チャコ)の『パックインミュージック』(TBSラジオ)を聴いていて二人がしきりに「熊沢さん」(熊沢敦)とディレクターを話題にしているのを聴いて「ディレクターって面白そうだな」と思い就職活動時にディレクターを目指すようになる[4]

入社試験を受け始めた1971年、テレビは日本教育テレビ(現・テレビ朝日)以外は新入社員の募集が無かったためラジオ一択の状態になりニッポン放送と文化放送で募集があったため『フレッシュイン東芝 ヤング・ヤング・ヤング』『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』のリスナーであったことからニッポン放送を受けようと決めた。

しかし自分の学歴が理系大卒なので一般職ではなく放送技術職しか受けられなかったが「入っちゃえば何とかなる」として受験し合格。高倍率をくぐり抜けてニッポン放送に入社した[4]

入社後に配属された部署は放送技術だったがディレクターを目指していたため年に1度の身上調査や外国人アーティストのコンサートがあるたびに制作部のフロアに遊びに行っては「制作部に行きたい」とアピールし続け直談判した。

1975年、念願の制作部への異動が叶う[4]。直属の上司である上野修や亀渕昭信らの下で、萩本欽一タモリ笑福亭鶴光沢田研二せんだみつお中島みゆき、イルカ、山口百恵松田聖子原田知世など多くの人気番組を作りディレクターとして頭角を表した。

松田聖子については1979年11月に『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』のオーディションで集まった30人のトークを聴いた中で「頭の回転が早い、無類に明るい、声が湿っていた、声質が色気とも少し違ってキュートなどダントツである」と判断し「グランプリは彼女しかない」と決めたが、スポンサーの平凡パンチは「スレンダーなのでグラビア映えしない」としてノーを出した。宮本はこれに納得がいかず平凡パンチの担当部長と編集長に対し一歩も引かず粘り強く説得を続け松田聖子を合格させ、翌1980年1月から『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』へのレギュラー出演を決めさせた経緯がある。この番組をきっかけに勢いをつけて大活躍しヒット曲を連発し芸能界を圧巻。コンサート、番組、雑誌、CM、イベント出演など所属のサンミュージックとCBSソニーを支える存在にまで成長した。後に松田聖子は宮本を恩人のひとりだと語っている[4]

二代目ディレクターだった「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」では同時間帯の番組占有率を90%までに上げて他局を圧倒した。世を席巻した「なんちゃっておじさん」は担当したタモリ、鶴光それぞれのオールナイトニッポン内のコーナーで競わせブームを起こすなど仕掛人としても知られる。

せんだみつおの番組に自作のパロディドラマの脚本を送り業界に入ってきた学生時代の秋元康を、同年齢で当時まだ高校生だった山口百恵の番組の放送作家に起用した。結婚で芸能界引退時のラストコンサートや最後となるラジオ番組も取り仕切っている。

他局に先行されていた夜の時間帯にブレイク前の三宅裕司を帯のパーソナリティに起用して聴取率トップにするなど番組並びに多くの放送作家タレントを世に送り出した。

功罪

独自の嗅覚を持ち様々な番組作りや収益化など局への多大な貢献で出世街道を歩み、ニッポン放送の専務取締役まで上り詰めたが多くの成功体験からか、時に高圧的な言動が災いしトラブルメーカーとしてこれまで幾多のスタッフや芸能人との確執も報じられている。

伊集院光との確執

伊集院光は宮本と森谷和郎との確執が原因でニッポン放送と決別したと述べている[5]。初対面の時に泥酔状態の宮本は伊集院の挨拶を遮りながら頭を乱暴に掴んで「売れる匂いが全くしねぇ」と吐き捨てて去り互いに確執が始まる。

2014年にニッポン放送開局60周年記念番組へ出演して鉢合わせ宮本から「この項の内容はデマである」としてウィキペディアからの削除を要求されたが伊集院は「デマではない」と断言している[5]

2019年5月18日放送の『ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回』で伊集院がゲスト出演した際には名前は伏せつつも「出演後に上柳昌彦の仲介で再会するとネット上のデマを訂正しろと言われて揉めた」「当時はトラブルメーカーで色んな人と喧嘩していた」と語り和田アキ子は「さんまもそうだった」と語る[出典無効]

2023年3月24日、『春風亭一之輔 あなたとハッピー!』にゲスト出演した際には、「ニッポン放送でデビューしてからずっと途切れずに宮本さんとは親友みたいに仲良く」と皮肉交じりに語っている。

とんねるずとの確執

2018年3月1日に放送されたラジオ番組『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン』にとんねるず石橋貴明がゲスト出演した時『とんねるずのオールナイトニッポン』を降板したのは宮本が原因だと語る[6][7]

とんねるずは1985年から92年10月までオールナイトニッポンを担当していたがある確執が理由で降板した。その事件についてリスナーから質問されると「宮本のせいです」と即答。

石橋によると秋元康の映画の試写会の2次会でバブルガム・ブラザーズブラザー・コーン(Bro.KORN)の隣にいた時に宮本が横にやって来て「コンちゃん、コイツら(とんねるず)オレの仕事断るんだよ」と突然言い放ったのだという。当時とんねるずは別の仕事があったためニッポン放送が山手線を貸し切って行うイベントのオファーを断ったがそれについて絡んできたという。

石橋は「ちょっと待って。オレたち、なーんもアンタの世話になってない。全て違う人がオレたちと組んでくれた。アンタは三宅裕司さんの番組やってた人だ。アンタには何のお世話にもなっていない。『こいつら』呼ばわりされる覚えはない」と怒ったことを冷静に明かした。

翌週、石橋はオールナイトニッポンのレギュラーをボイコット。相方の木梨憲武が一人でパーソナリティを務めた。

石橋は「気付くと宮本亭は色んな人と揉めてた。明石家さんまさんとかも出なくなった」と、さんまとニッポン放送との確執についても宮本が原因だったことを明かし明石家さんまも宮本との対立からニッポン放送と疎遠になったと証言している[6][7]

明石家さんまとの確執

明石家さんまはニッポン放送からプロ野球中継の出演を打診された際、スケジュール上の問題で一旦は断ったがスタッフが大阪のラジオ番組に出向いて出演を要請され録音を条件に出演を承諾したがプロ野球中継にさんまのコメントを差し込む形態で生放送として放送したためニッポン放送に不信感を抱いたという[7]

これを契機に高い聴取率を誇っていた『明石家さんまのラジオが来たゾ!東京めぐりブンブン大放送』を終了しTBSラジオへ移り『TBSレディオクラブ』内で『明石家さんまのおしゃべりツバメ返し』を開始した。かつて巌流島で宮本武蔵と決闘した佐々木小次郎の秘技「ツバメ返し」を隠語として番組名に入れるなど、宮本への敵意をむき出したさんまの怒りが相当であったことがわかる。

数十年後、ニッポン放送プロジェクトへ宮本が異動して局を離れたことを機にニッポン放送と和解したさんまは、2017年4月17日『明石家さんまオールニッポンお願い!リクエスト』に出演。実に29年ぶりにニッポン放送への出演となった。番組はそれ以降不定期で放送されている。

デーモン小暮との確執

2023年3月25日に放送したラジオ番組『オールナイトニッポンPremium』に聖飢魔IIデーモン小暮閣下が生出演。「デーモン小暮のオールナイトニッポンを降板したのはM氏」と名前を伏せつつ、宮本が原因だと語っている。

デーモン小暮は1987年~1990年にオールナイトニッポンを担当していたが同時期に他局へのラジオ出演が宮本の耳に入りマネージャーと揉めることになり「ニッポン放送以外でラジオをやるなら番組を打ち切る!」とパワハラまがいの恫喝をした宮本に対して納得のいかないマネージャーは一切折れずに「今後も他局へも出演させる」と伝えた結果「ニッポン放送(宮本)から打ち切りを命じられた」と明かしている[8][9]

脚注

  1. ^ “役員の状況” (PDF) (日本語). 有価証券報告書. 産業経済新聞社. p. 28 (2007年6月27日). 2016年2月16日閲覧。
  2. ^ “東京理科大学報 第161号” (日本語). 大学報. 東京理科大学 (2006年6月30日). 2014年6月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月16日閲覧。
  3. ^ “専務・コンテンツ事業本部長宮本=コンテンツ事業副本部長岩崎・森谷取締役ら-LF、株主総会・取締役会で組織改正・役員人事” (日本語). 連合通信ドットコム. 連合通信社 (2010年6月23日). 2016年2月16日閲覧。
  4. ^ a b c d e f 亀渕昭信『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』(小学館新書、2023年4月、ISBN 9784098254477)p.62 - 100「第3章 宮本幸一 思い込みと『推し』の力」
  5. ^ a b “伊集院光がニッポン放送との確執を明かす「あの局には頼まれたって行くもんか」” (日本語). トピックニュース. LINE (2014年7月22日). 2016年2月16日閲覧。
  6. ^ a b “石橋貴明、オールナイトニッポンを降板した理由”. ネタりか (Yahoo! JAPAN). (2018年3月2日). https://netallica.yahoo.co.jp/news/20180302-70913585-narinariq [リンク切れ]
  7. ^ a b c “石橋貴明 ANN降板の確執を激白 原因はさんまも怒らせたM氏”. デイリースポーツ. (2018年3月2日). https://www.daily.co.jp/gossip/2018/03/02/0011033119.shtml 
  8. ^ “デーモン閣下 人気絶頂期の〝ANN打ち切り〟真相語る「じゃあ辞めさせてやる!って」”. 東京スポーツ (2023年3月25日). 2023年3月28日閲覧。
  9. ^ “デーモン閣下『18/ 03/ D.C.25:オールナイトニッポン Premium』”. デーモン閣下オフィシャルブログ「デーモン閣下の地獄のWEB ROCK」Powered by Ameba. 2023年3月26日閲覧。

関連項目