曾幾

曾 幾(そう き、元豊7年(1084年)- 乾道2年5月26日(1166年6月25日))は、中国南宋の官僚・詩人。字は吉父。自ら茶山居士と号する。

略伝

贛州贛県の出身で、のちに洛陽に移住する。特命によって吏部考試を受けて太学上舎を賜り、校書郎となる。のちに河南府少尹となる。高宗の時代に江西提刑・浙西提刑を歴任。兄の曾開が抗戦を主張し宰相の秦檜と対立したため、連座して免職となり、転運使判官の職があったが固辞する。江西の茶山寺に閉居していたが、秦檜の死後、浙西提刑に復帰し、台州知州となる。のち秘書少監となり、『神州宝訓』編纂の旨を受け、書を完成させて礼部侍郎となる。たびたび隠退を申し出て許され、玉隆観の提挙となり、隆興2年(1164年)に官を辞する。乾道2年(1166年)5月、平江府にて83歳で死去。

詩と著作

曾幾は学を劉安世胡安国より承け、詩では杜甫黄庭堅をきわめて賞賛し、『山谷集』を繰り返し読んだという。また韓駒と呂本中に詩作について教えを受けたことがあった。呂本中とは子女を婚姻させるほど親しく、陸游は曾幾の詩学の弟子である。彼の詩は呂本中よりも軽快で楊万里の先駆けを為している、と評される。著作の『易釈象』は散逸したが、『茶山集』8巻がある。

蘇秀道中 自七月二十五日夜大雨三日 秋苗以蘇 喜而有作
一夕驕陽転作霖 一夕 驕陽 転じて霖(ながあめ)となり
夢回涼冷潤衣襟 夢は回り 涼冷 衣襟を潤す
不愁屋漏床床湿 屋が漏れて床床湿(うるお)うを愁えず
且喜渓流岸岸深 且らく喜ぶ 渓流れて 岸岸深きを
千里稲花応秀色 千里の稲花 応に秀色なるべし
五更桐葉最佳音 五更の桐葉 最も佳音なり
無田似我猶欣舞 田なきこと我のごときも 猶お欣舞せり
何況田間望歳心 何ぞ況んや田間に歳(みのり)を望むの心をや
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