西兗州

西兗州(せいえんしゅう)は、中国にかつて存在した

歴史

孝昌3年(527年)、北魏により兗州から済陰郡、済州から濮陽郡がそれぞれ分割されて西兗州が設置された。州治は済陰郡定陶県定陶城(現在の山東省菏沢市定陶区倣山鎮)に置かれた[1]が、後に定陶県左城(現在の山東省菏沢市定陶区馬集鎮)に移された[2]。西兗州は定陶・離狐冤句乗氏濮陽廩丘城陽鄄城の8県を管轄した。

536年(天平3年)、東魏により濮陽郡が司州に転属した。540年(興和2年)、済陰郡から沛郡が分割されて西兗州はこの2郡を管轄することとなった。556年(天保7年)、北斉により沛郡は済陰郡に編入されて1郡のみの管轄に戻った。

578年宣政元年)、北周により西兗州は曹州と改称された[1]。曹州は定陶・冤句・乗氏の3県を管轄した。

脚注

  1. ^ a b ウィキソース出典 (中国語)『『元和郡県図志』巻十一 河南道七 淄青節度使下』。ウィキソースより閲覧。 
  2. ^ ウィキソース出典 (中国語)『『魏書』巻一百六中 地形志二中第六 南青州』。ウィキソースより閲覧。 
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