趙憲
ちょう けん 趙 憲 | |
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生誕 | 1544年 |
死没 | 1592年 |
職業 | 文臣 儒学者 |
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趙 憲 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 조헌 |
漢字: | 趙 憲 |
発音: | {{{nihonngo-yomi}}} |
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趙 憲(ちょう けん、朝鮮語: 조헌、1544年 - 1592年)は、李氏朝鮮の文臣、儒学者、義兵大将[1]。本貫は白川。朝鮮燕行使だった趙憲は、中国明朝の皇帝万暦帝より謁見を賜る栄誉を受け、大明帝国の一員(属国)として世界秩序に参画していることに感激し、三跪九叩頭しながら喜びの涙を流した[2]。
人物
字は汝式、号は重峯。壬辰の乱(文禄・慶長の役)の時に義兵大将として戦ったことから、諡号は文烈[1]。
1565年、成均館に進学し、24歳の時に文科合格、その後、校書館副正字、校書館正字、工曹佐郞、宗廟書領を歴任する[1]。1574年、朝鮮燕行使に指名され、中国明朝へ詣でた[1]。
壬辰の乱が起きると義兵大将となって戦うが、あえなく戦死した。享年49。死後、宣武原従一等功臣、吏曹判書を追贈[1]。
脚注
- ^ a b c d e “조헌(趙憲)”. 韓国民族文化大百科事典. http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Index?contents_id=E0052754 2022年8月20日閲覧。
- ^ 夫馬進『朝鮮燕行使と朝鮮通信使』名古屋大学出版会、2015年2月28日、79頁。ISBN 4815808007。