四ツ谷 巖(よつや いわを、1922年2月9日 - 1993年6月27日[1])は、日本の裁判官。最高裁判所判事。岐阜県出身。
概要
1945年(昭和20年)東京帝国大学を卒業。1945年(昭和20年)11月に司法官試補、1947年(昭和22年)5月に司法修習生になり、1949年(昭和24年)6月に富山地裁を振り出しに裁判官生活を始める。1954年(昭和29年)に最高裁総務局付。この後、札幌・東京の各地裁判事、東京高裁判事、福島地裁所長、東京高裁総括判事を歴任。1984年(昭和54年)12月に広島高裁長官に就任し、1985年(昭和60年)11月に東京高裁長官に就任した。
1992年(平成4年)2月に定年退官した。
裁判官としての姿勢
1987年(昭和62年)1月28日に最高裁判所判事に就任。1989年(平成元年)3月8日に法廷メモ訴訟の最高裁大法廷判決では「法廷でメモを取る行為は、証人や被告人に微妙な心理的影響を与え、真実を述べることを躊躇させる恐れがある」とする個別意見を表明した。
また、1963(昭和38)年に発生した狭山事件について、1977(昭和52)年8月30日付で提起された東京高裁への上告について当時、第4刑事部の裁判長であった四ツ谷は、証拠調べをまったく行うことなく、1980(昭和55)年2月にこれを棄却し、2審の無期懲役判決が確定した。
このように四ツ谷は、終始一貫して反動的姿勢を堅持してきた裁判官であるといえる。
脚注
- ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、1364頁。
参考文献
- 野村二郎『最高裁全裁判官:人と判決』三省堂、1986年。ISBN 9784385320403。
- 野村二郎『日本の裁判史を読む事典』自由国民社、2004年。ISBN 9784426221126。
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